走馬灯

片田舎の平凡な主婦がアメリカで弁護士になるまでの軌跡

1988年

私の母校はフロリダ半島の西海岸に位置し、フロリダで最も歴史のあるロースクールである。

規模が小さいのでクラスの仲間同士も最初の数日で顔みしりになり、互いのファーストネームで呼び合うようになる。

教育内容は充実していて、毎年フロリダ州司法試験合格率をゲインズビルにあるフロリダ州立大学と1、2を争っているため入学のハードルも高い。

ロースクールの入学はLSATといわれる、知能と、読解力と論理的思考能力を試すテストと大学時代の成績、それから大学の指導教官3名からの推薦状の総合評価で決められる。

私のLSATの準備は、1988年、アメリカでの生活が予想された時点で、心斎橋の紀伊国屋で販売されていた過去3年の問題を収録した問題集を購入することから始まった。

ちょうど正月の帰省中だったため、私は父の相手で花札をし、負けが込むと母や元夫に代わってもらい、自分の部屋でLSAT問題集を広げて勉強し母の小言を頂戴した。

母は私がアメリカに行くことにより元カレとよりを戻すのではないかと勘繰っていたが、別れてからさすがに4年以上もたつと私にとって元カレなど名前を聞けば思い出す程度の存在になっていた。

私は昭和の時代に生まれ、昭和と共に成長し大人になった。

大阪のベッドタウン、近鉄奈良線沿線郊外で育った。

大正生まれの父親は自営業で子育てなどにはサラサラ興味が無く、家に帰るとビールと日本酒2合を飲み黙々とつまみを食べテレビを見ていた。

テレビが終わるとそそくさと2階に上がり、煙草を吸いながらしばらく読書をして就寝する。

私や妹にも全く興味を示すことはなかった。

よほど家庭という拘束された空間が肌にあわず、居心地が悪かったのだろう。

見合い結婚をした母は、そんな父に愛想をつかして離婚して、新しい男と人生をリセットしたかったようだが、これと言って手に職もなく、再婚して金持ちの男に養ってもらうしか生活の活路のない身であるので、ただチャンスが来るのを虚しく待ち続けていた。

着飾ってPTAの会合に率先して出かけていたが、そこで出会うのは金持ちのベンチャーの社長どころか、妻子持ちの中年の冴えない学校の教師が関の山で、母の夢は50年来、父が死ぬまで叶うこともなかった。

ちなみに私の両親は両方とも高卒で大学教育を受けていない。
母は大阪中央区で卸売り業という小商いをしている実家の両親から甘やかされて育ち、結婚後も宝石、ブランド物の洋服、ハンドバッグや着物などといった、父の給料ではとても購入できない高価な品物を実家の両親から買ってもらっていた。

冴えない夫を持ったことによるコンプレックスから、世間から見下されたくないという強い競争意識が母にはあった。
母は教育もなく、教養にもかけていたが、社交的そして付き合い上手で、料理や家事に手を抜くことはなかった。

「世間を見返す」という彼女のライフワークであったベッドタウンの新築住宅を購入したため、そのメンテナンスが彼女の生きがいとなった。

そのため一日の大半を掃除に費やした。

風呂場や台所の壁のタイルの目地の一つ一つまで、毎日漂白剤入りの研磨剤で磨き、家中の窓ガラスも毎日磨く。

そのおかげで我が家は十年来、風呂場も台所も新築そのままの外観を保っていた。

カビや湯垢は大敵で、冬場でも入浴後は寒くてもすぐに換気のため風呂場の小窓を開けておくというルールがあった。

そのルールを守る事を忘れると大声で叱られた。

一度、子供の健康と家とではどちらが大事なのかと聞くと、家に決まってるじゃない
と当然のごとく言われた。

家は財産だが、娘など高スペックの男とでも結婚しない限り、嫁に行くと将来はたかが知れているので投資効果もないというのが理由である。
父は休日でも家族と過ごすのを避け、趣味の家庭菜園などをしていたので、私は必然的にもっぱら母親と過ごす時間が多かった。

その時のトラウマで、私は母とは全く違った生き方をすることを選んだ。

違い

私のもう一つの財産はアメリカ人の友人達である。

友人には高校中退した者から一流の大学院で博士課程を修了した者までいる。

かなりの資産を持つ富裕層もいるし、山に篭りヨガの修業をしながら自給自足の生活をしている者もいる。

しかし、みな知的好奇心にあふれ人間的にも魅力的だ。

またアメリカ人は総じてエンパシ―(他人に対する共感や同調性)が強く、誰かが助けを求めると一緒に考え行動に移してくれるのだ。

また日本は諸外国に比べて雇用の流動性が極端に低い。

その上、40代までには社内の出世競争の勝負がついてしまい、逆転人事も期待できないため、自分の市場価値を上げる努力をしなくなる。

社外でも通用する絶対的市場価値が確立されていないため、起業・独立に対してもリスクが高いと感じてしまう。

また高い専門性を持ち、高収入の医師などの女性を妻としない限り、男性に経済的な負担がかかりすぎているため、既婚男性の転職は極めて経済的なリスクを伴う。

日本にいた頃を振り返ると、そのころに抱いた閉塞感は日本社会が変化を好まず、変化に伴うリスクを畏怖し回避するため、自己研鑽を放棄した人々で成り立っている社会であることに起因しているのだと気が付いた。

アメリカ人は変化を求めることを向上心の表れととり、そのために必要な手段を一緒に考えてくれる。

学校も職業も住む場所も必要に応じて変えていけばいいじゃないかと。

転職に成功したらそれでいいし、失敗しても、また始めたところからやり直せばいいといつも前向き思考だ。

アメリカでは雇用の流動性が極めて高く、能力のある人材が世界各国から集まる。

高度の専門性や優れた能力を持つ者は常にヘッドハンターによる引き抜きが行われる。変化を成長の源と考える社会、個人の価値観の相違、多様性を当然とする社会がそこにある。

弁護士

結果から言えば私は、1996年11月フロリダ州最高裁から弁護士資格と弁護士番号を与えられ、3年ごとに免許を更新し今日に至っている。

これによって得たものの価値は計り知れず大きい。

キャリアを確立することで、経済的な自立、自由と職業選択の自由を得た。

自由は私を幸福にし、また多様な生き方を可能にしてくれた。

ロースクール卒業後8か月目に、フロリダ州地方裁判所のスタッフ弁護士(仕事内容は日本の判事補と同等である)に採用された。

州政府の仕事をしている時は、タンパ湾を見下ろすダウンタウンの裁判所の6階に、ホテルのスイートほどの広さのオフィスをあてがわれた。

2000年アメリカ大統領選関係の訴訟も経験した。

フロリダ州政府に13年務め、その後、州政府勤務時代に仕事を共にしたケリー判事の立ち上げた弁護士事務所に転職し、刑事や民事案件を扱った。

最近は裁判所に出廷する必要のない企業法務をしているが、それはストレスが少なく収入が安定している事と休暇などの自由がきくからが理由だ。

薬事法務の世界に入った時には私はすでに49歳となっていた。

仕事の性格上、最初の15年はフロリダ州に住まねばならなかったが、15年目を区切りに、州ごとに弁護士登録の必要性のない企業法務をして、違う州にも住んでみたかった。

転職後は、世界各国の薬事法規や、材料工学や製品に使われる、ありとあらゆる種類のプラスチックいわゆるポリマー樹脂やその柔軟性を上げるための可塑剤、分子構造を安定させる安定剤、色素などがどのように人体に影響するかを試す生物的安全性試験や臨床データの解析方法など、薬事法務の基礎を一から勉強せねばならなかった。

しかし訴訟という極めて人間臭い世界から、突然サイエンスの世界に入り、すこぶる毎日が新鮮で楽しかった。

給料をもらいながら勉強をし、昨日まで知らなかったことを今日知るという経験は貴重だった。

計画

その後、夫と話し合い、アメリカできちんと教育を受け直したい旨を説明した。

最初は2年と言っていたが、実のところ、アメリカの法曹資格を得るまでは帰国しないと秘密裡に決めていた。

しかしその目標を達成する方法を模索するうちに、様様なハードルが立ちはだかっているのが分かった。

気持ちが揺らぎかけると、私は自分のありとあらゆる長所を心に浮かべた。

私は自分の限界を知らない。

限界を感じるまで何かに挑戦したことがない。

成功する保証はないが成功しないという理由もない。

私はまだ27歳だ。

私は誰よりも行動力がある。

私は誰よりも直観力に優れている。

私は誰よりも呑み込みが早い。

私は誰よりも意志が強い。

私は文章力がある。

私は人前でスピーチしたり発表するのに全く抵抗を感じない。

私の英語は世界中どこでも通用するレベルに達している。

私は老若男女を問わず人に好かれ困った時には誰かがいつも手を差し伸べてくれる。

やり残したことに未練を感じながら、このまま10年ひと昔のような人生を終えるのは止めようと思った。

このようにして希望はゆっくりと「計画」というものに形を変えていった。

アメリカ

その後、福井県立図書館で阿川尚之氏のアメリカンローヤーの誕生という作品に出会った。

阿川氏は作家、阿川弘之氏のご子息である。

阿川尚之氏は当時ソニーの社員で、盛田会長の意向により社内留学で、超名門校であるジョージタウンロースクールに留学し、アメリカで法曹資格を取った。

父親譲りの文章のうまさはもちろん、アメリカ法曹資格取得のために奮闘されたワシントンDCでの3年間を奢ることのない素直な、それでいてユーモラスな軽妙なタッチで書かれた興味深い一冊であった。

当時ソニーはベータマックスが映画の著作権を侵害するものという訴訟をフォックス社から起こされていた。

ソニーとしては負けることのできない訴訟である。

しかも裁判管轄権は日本ではなくアメリカのワシントンDCにあり、アメリカの連邦法が適応される。

阿川氏の著書の中に、このような興味深いくだりがある。

「アメリカの弁護士は金ばかり請求し、その対価に見合うだけの仕事をしない。」

と、常日頃から口にしていた盛田会長がある日、車に同乗していた阿川氏に

「阿川君、アメリカでローヤーになるのに何年かかるのかね?」と尋ねた。

阿川氏が「3年ですが。。」と言うと会長は

「それでは君にアメリカでローヤーになってもらう。」と。

アメリカの大学を卒業されているとはいえ、弁護士でもない一介のサラリーマンであった阿川氏がロースクール卒業後首都ワシントンとニューヨーク州両方で弁護士試験に合格され、ニューヨークの超一流弁護士事務所で訴訟弁護士をされているというエピローグに強く心を奪われた。

実力さえあればアメリカではアメリカ人弁護士相手に訴訟が担当できるのだと。。

 

卒業から2年後、私は福井県に転勤していた元夫と結婚し福井で暮らすようになった。

見合いで結婚した夫は企業の開発研究員で、個性が強くないので私たちの間で言い争いなどもなかった。

他人の眼には仲の良い夫婦と映っていただろう。

しかし表むきの平和さとは裏腹に、私の中で徐々に現在の自分に疑問を抱くようになった。

夫はサラリーマン生活をつつがなく終え、60歳で年金生活に入ることに何の疑問も持っていなかった。

彼の父親は大正生まれの専制君主的家長であったため、彼は常に与えられたことだけを忠実に実行し、自分で判断するという訓練を受けていなかった。

そのため、予期しないアクシデントなどが起こると全く役に立たなかった。

買い物に行ってもらった際、私が玉ねぎ一袋とメモに書いたため、玉ねぎが平台に山積されていても、買ってきてもらえなかった。

ばら売りの玉ねぎは一袋単位で購入できないというのが理由である。

そのため、私は用事を彼に頼むことを極力避けた。

夫はこれといった趣味もなく、何かに情熱を持って打ち込むこともなかった。

帰宅すると夫はテレビでプロ野球中継を見て、休みの日には近くにドライブに行く。

私は近所の中学生や高校生相手に勉強を教えていた。

大した収入にはならなかったが、社会に繋がる窓口が必要だった。

春に生まれた娘は秋にはつかまり立ちを始め、一歳になったころにはもう既に一人で歩行を始めていた。

瞬く間に成長した娘に比べ、自分とは言えば、ただ無為に年を取っただけのように思えてならなかった。

当時はまだバブルの頃で、都市銀行や証券会社に就職した県立高校時代の同級生達はボーナス一回で100万円を超えたなどや、企業MBA留学でアメリカに渡ったりしたのを風の便りに聞いた。

同級生の間でダントツの人気があった、とても美人だった由美さんは地方局ではあるが女子アナになっていた。

嫉妬や焦りも少しは感じたがそれはそれで仕方ないことだと自分に言い聞かせた。

私は企業社畜にはなりたくなかったし、国家公務員試験の年齢制限にはまだギリギリ間に合いそうだったが、霞が関の官僚になるほど体制に従順することは出来なかった。

それでも、マンハッタンのど真ん中にあるニューヨーク大学のキャンパスで撮られた満面の笑みを浮かべた県立高校時代の同級生のスナップ写真と共に添えられたメッセージを読むと心穏やかではいられなかった。

「慧さん、お元気ですか?今ではすっかり田舎暮らしにも慣れたことと思います。あ、結婚式の写真ありがとね。優子も山田もキレイに写ってたね。ところで僕は来年MBAをとった後サンフランシスコのユニシスで1年間インターンすることが決定しました。」